清華「樹学風」読書チェックイン二日目-『流浪・農舎』

読書チェックイン+二日目+『外国散文精品鑑賞』+読書ノート

ヘッセはロマンティックで詩情に満ちた筆致で、放浪しながらもどこかに縛られているような一人の放浪者を描き出している。放浪者としての「私」は、なんと矛盾に満ちていることだろう。すべてを同時に手に入れようと思っていたのに、最後になって、あるものは自分の「偶像」あるいは「心の魔」にすぎなかったのだと気づく。そうした虚妄は、私たちの内なる執念の投影でしかないように思える。最後に見いだされるのはこうだ。「救いの道は左へ通じるのではなく、右へ通じるのでもない。それは自分自身の魂へと通じている。そこには神だけがあり、そこには平和だけがある。」

「私」は境界を嫌い、一点に打ちつけられた愛を軽蔑し、背離、変転、幻想を崇める。「私」はここにあるすべてに別れを告げ、別の屋根、別の農舎を愛しに行く。けれども「私」の内には、また一種の郷愁があるようだ。私は自分自身を受け入れる。自分は完全な人間ではなく、純粋な放浪者でもない。「私」は喜びを味わうように、郷愁をも味わわなければならない。旅路に踏み出すとき、風もまた言葉を発しているように思える。どれほど遠くへ離れたいと願っても、あなたは気づくだろう。ここから、彼女から、つまりあなたの母から、完全に離れ去ることなどできないのだと。

人にはこんな苦しみがある。私はもともとそういう人間ではないのに、そういう人間になりたいと願ってしまう。作者が書いたように、私は詩人になりたいと思い、同時に農民にもなりたいと思う。しかし長い時を経て、私はようやく自分が遊牧民なのだと気づいた。本来、私たちの心には一つの実像しかないのに、欲念によって無限の虚像が投影されてしまう。いわゆる、顛倒した夢想を遠ざかれば、究竟涅槃に至る、ということだ。私は誰なのか、どこから来て、どこへ行くのか。

この記事は私のブログ「慧眼所見」に掲載されています。

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