誰もが高価な存在だ

誰もが高価な存在だ

私が生み出すものは、私の思想であり、生き方そのものだ。

この言葉は、私にとってとても重要だ。なぜなら、それは多くのことを「コンテンツ」「プロダクト」「効率」「トラフィック」といった言葉の中から取り出し、もう一度一人の人間の生活の中へ戻してくれるからだ。

私は書く。けれど、それはただ人に見てもらうためだけではない。私はツールを作る。けれど、それはただ効率を上げるためだけではない。私はワークフローを整える。けれど、それもただ収益化のためだけではない。こうしたものは、たしかに結果をもたらすことがある。しかしそれ以前に、それらはまず私が生きるための方法なのだ。世界をどう理解するか、時間をどう配分するか、注意を何に向けるか、生活とどう向き合うか。そうしたことの外化なのである。

だから、私がすることは何であれ意味がある。

その意味は、必ずしも証明される必要はない。何かの成果を上げなければならないわけでもないし、誰かに価値をもたらさなければならないわけでもないし、市場やプラットフォームや他人の評価によって確認されて、はじめて意味を持つわけでもない。

私たちはこの世界にあって、あらゆる行為に意味を持っている。いや、何かを実際にしなくてもいい。ここにいること、呼吸すること、経験すること、感じること、ある日目を覚まして、また一日を生き終えること。それ自体が、決して空っぽではない。

多くの場合、人はとても安っぽい基準に縛られてしまう。何かを生み出したか。成果を上げたか。影響力があるか。誰かの役に立ったか。お金を稼いだか。

こうした問いにまったく意味がないわけではない。だが、それらで一人の人間の存在の重みのすべてを測ることはできない。なぜなら、いったんそうした基準だけで自分を見るようになると、人は一つの機能へと換算され、一つの道具へと圧縮されてしまうからだ。交換できる部分、見せられる部分、結果を生む部分だけが、残るに値するかのように。

だが、人はそういうものではない。

誰もが高価な存在だ。

ここで言う「高価」とは、市場価格のことでもなければ、自分で値札を付けることでもない。それは、一人の人間の時間、注意、感情、記憶、失敗、羞恥、愛、恐れ、希望といった、簡単には計算できないすべてのものに、それぞれ固有の重みがあるということだ。

人は、役に立つから尊いのではない。価値を生み出せるから尊いのでもない。見られるから、称賛されるから、必要とされるから尊いのでもない。

人は、もともと安い存在ではないのだ。

だから、私が「私が生み出すものは、私の思想であり、生き方そのものだ」と言うとき、実は同時にこうも言っている。もうこれ以上、自分をコンテンツ製造機や、効率化のための道具や、評価を待つプロジェクトのようなものへと縮小したくないのだ、と。

私のすることは小さくてよい。一文を書くこと、一行のコードを直すこと、一つのフォルダを整理すること、しばらく子どもに付き添うこと、数ページ本を読むこと、ぼんやりすること、ひとつのことをゆっくり考え抜くこと。それらはすぐに外部的な価値を生まないかもしれない。だが、どれも私の生活を形づくっている。

そして、生活そのものは、業績報告を提出するためにあるのではない。

もし一人会社や、執筆や、技術や、フリーランスというものが、最後には自分をより苛酷な上司へと変えてしまうだけなら、そこに大した意味はない。本当に大切なのは、毎分毎秒から価値を搾り取れるかどうかではなく、自分を裏切らない生き方を築けるかどうかだ。

アウトプットは、ただ表面にすぎない。

本当に出力されているのは、私がどう生きているか、なのだ。

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